OSAMU'S SECRET ROOM
 

「失われし物」への愛着、そして偏見と繰言に満ちた場所です。


ご感想、ご批判をここにお寄せください。



スバルFF−1よ、永遠なれ 2011/8


二代目セカンドカー 2003/9
三代目セカンドカー 2005/4

マイファーストバイク 2003/9
我が二代目バイク 2003/11

過去のスポーツ自転車3台 2022/12


マイファースト一眼レフ 2003/8
マイファーストデジカメ 2004/6

さらば愛しき腕時計たち 2004/6

 

ボクらは東中3−3B 2013/10

赤い夕日が校舎を染めた頃 2024/1

 

金沢八景は遠く 2014/11


青雲の志を抱いた者たちは今・・ 2012/11


目次


06.12 今日でお休み
06.12 今日の思索 「囲まれる私」 
06.11 今日も岡目八目 「来年度国家予算について」 
06.11 今日の感想文 「スバリストミーティング」
06.10 今日の予告編 「一曲入魂」
06.10 今日のまとめ 「小泉君と安倍君」 
06.9 今日の暴露話 「私の弱点」
 06. 9 今日の手紙 「まりちゃんへ」
06.8 今日の課題 「日本人の法意識」
06.8 今日の時評 「小泉首相靖国参拝」
06.7 今日の錯覚 「シリコンバレーをヒロシが往く。」
06.7 今日の白日夢 「電車内にて・・」 
06.6 今日の解説 「営業マンのランチ」
06.6 今日のニュースから 「棄民の国の愛国心」  
06.5 今日の論考 「小学校からの英語教育」
06.5 今日の発見2 「老人度の測り方」
06.4 今日のメッセ−ジ 「オジサンから若者へ」 
06.4 今日のウンちく 「洗浄便座について」
06.3 今日の一言 「また、名前のこと」
06.3 今日はこんなものが欲しい。「次世代ラジカセ」 
06.2 今日の批判 「ここが変だよ、日本人。」 
06.2 今日の課題 「ネーミングの問題」 
06.1 今日の夢 「ラジオのDJになる。」  
06.1 今日のおさらい 「去年〜今年の消費生活」 


 過去の書き込みはこちらにあります。 

堀口家正面玄関へ続く道はここです。



今日でお休み 06.12
思えば1999年から7年半つまらぬことをここに書き連ねて来ましたが、いささか疲れました。それに、音楽に的を絞ったブログを始めようと思っています。そこでしばらくお休みしようと決めました。当分上の写真以外の更新は基本的にしない予定です。
以上お知らせまで。

今日の思索 「囲まれる私」 06.12
「好きなものに囲まれる幸せ」、これはオモチャのコレクターとして有名な北原照久氏の言葉である。これは、私の実感でもある。このサイト、あるいはここから飛ぶ我が家の別サイトでもわかるように、私は今年もこれまで、いろいろなものを集め身の回りに置き、この表現は本当に我が身にフィットすると思う。とりわけ音楽ソフトと本は、いわば自分の感性と知性のフィルターを通して来たものだけに、自分の分身とか子どもと言っても過言ではないかもしれない。医学的、生物学的には、(養老孟司も言う)自分の肉体は日々一刻入れ替わって、1年?も経てば元の自分ではなくなってしまうそうだ。となれば、コレクションはそういう自分の生きた証しというか歴史を示すものでもあるだろう。収集物には自分のからだ同様、経年変化があり(例えばカセットの劣化、本では内容の陳腐化など)死んでゆく、あるいは埋葬されるものもある。はたまた成長しすぎて、部屋に収まりきらず、里子や捨て子に出されるものもある。さて、そういう私は今幸いに、愛する家族ともに住んでいるので、これでもコレクションに対する姿勢は、まだこの程度で収まっているということもできる。つまり、いつか自分が天涯孤独という境遇に陥る可能性を考えてみる。その時は、自分の関心はすべてそれら収集物に向けられ、より強い注意と関心が集中することになろう。その時はいわゆる「大人買い」が「老人買い」になって更なる浪費!?につながるのだろうか?

今日も岡目八目 「来年度国家予算について」 06.11
最近の経済記事によれば、日本経済は好景気であって、いわゆる「いざなぎ景気」を超えたという。信じられない気もするが、主たる要因は個人消費に寄らず、企業の高収益に起因し、しかも昨今はそれが従業員には還元されない傾向であるらしいのであるから、さもありなん、ということか。いずれにせよ来年度の国家予算には多少なりともそれを反映して欲しいものである。とはいえ、もちろん、削るべきところはしっかり削って、毎度毎度、会計検査院から指摘されて、マスコミの物笑いになるような失態をさらけ出さないで欲しい。特に国家公務員の人件費については、頭数とともに民間では考えられないようなさまざまな手当て等は廃止し、総額を減らすべきである。但し次の二件の関しては、増額すべきであると思う。一つは警察官及び犯罪対策費用である。昨今凶悪犯罪が増加しているといわれている。が、実は全体件数よりも未解決事件が増えているのではないだろうか。原因の一つとして捜査能力の低下が挙げられているようだ。つまり捜査員の数及び力量が足りないらしい。であるならば単純に鉦や太鼓で優秀な人材を多く集めるべきである。同時に先進の捜査機器の導入及び捜査ノウハウの若手への伝承に支出してもらいとも思う。社会不安の解消は治安の確保から始まり、社会不安が解消されれば、個人消費だって上向くに違いない。もう一つの増額すべき人件費は教育関係である。今盛んに言われている「いじめ」に代表される教育問題解決の一歩は、クラスサイズの小型化にある、と私は信じている。で、まず教員を増やし例えば1クラス20人台にすべきである。さらには教員以外のスタッフを充実させて、教職員全体が子どもに目が向けられるような体制を作るべきではないだろうか。また話は変わるが、優秀な日本語教員を増やし、例えば海外に日本語学校(文化センター)を作るなどの予算を設けても良いと思う。「顔の見えない日本」と称されて既に久しい。日本語を海外に普及させ、日本情報・日本文化の普及を図るべきである。そうすれば世界で更に日本の存在感が増し、今以上の各種文化産業の輸出が期待できようというものだ。このことの方が国連常任理事国になることより遥かに重要だと思う。

今日の感想文 「スバリストミーティング」 06.11
今年も恒例のスバリストミーティングと呼ばれるスバル愛好家の集まりに行って来た。ここに参加すると、色んな人たちから、私の36歳のFF-1に対しお褒めと驚きの言葉をもらい、勇気付けられて、もう少し維持し続けようと思う。それにしても富士重工は何故類似車を未だ発売しないのかと考える。特に昨年スズキからスウィフトが発売され、専門家から絶賛された上しかもセールス的にも良いらしいだけに、尚更そう感じる。インプレッサやレガシーが決して悪いわけではない。いろんなサイトや雑誌の評判だって好意的である。(そういえば去年スウィフトはRJCカーオブザイヤー、レガシーは一昨年の日本カーオブザイヤーを受賞した。)しかしスバル1000〜1300のポリシーからは距離を感じざるを得ない。先祖に比べ、WRC必勝という使命があるとはいえ、今はあまりに高速性能を追求しすぎている気がする。分かる人は少ないかもしれないが、大東亜戦争時代の戦闘機の隼とP51マスタングの違いに似ているようだ。しかし、もし日本人好みというものがあるとすれば、大体それはシンプル、小ぶりが必須になっていないだろうか。柔良く剛を制すという独特の言い方もある。だから日本の誇るブランドとして、世界に自慢できる日本風なクルマ作りもしてもらいたいと願う。現行車は、安全対策という法規制のお陰に加えて、重装備をあまりに背負いすぎているように思える。ではどのように現代版スバル1000〜1300(単純に言えば高性能大衆車)を造ったらよいか考えてみた。はっきり言って富士重工クラスの企業レベルでは新規開発は難しいであろう。となれば、一つの手法はR2の流用、もう一つはヴィッツやパッソの活用であると思う。正直どちらが良いかはわからないが、素人考えでは検討に値すると思う。世界を見れば、プジョーとシトロエン、あるいはかつてのホンダシビック・アコードとローバーのように一見他人実は血縁みたいなことだってあるではないか。その場合は水平対抗とか四駆にこだわる必要はない。それでも「スバルらしさ」が出ると信じている。スバルのディーラーだって軽とインプの中間車種を欲しがっているはずである。是非富士重工は真剣に発売を考えて欲しい。もちろん車名は「オスカー」に決まりである。
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今日の予告編 「一曲入魂」 06.10
以前にシングルレコードをネタにしたブログを発行する予定があると書きましたが、以下にそのあらましを紹介します。タイトルでは「一曲」ですが、当然1回につき3曲程度の材料(主に歌謡曲のシングルレコード)は持っているので、結構面白いものになるはずです(自画自賛!)乞うご期待!!
1. あの人が外国人作曲でこんな唄を!
2. この唄はあのクラシックが元ネタ?
3. これはあのコンクール、そのフェスティバルで入賞しました。
4. これぞ日本のラップ・ヒップホップの元祖?
5. 楽しい楽しい冗談、コミック、下半身ソング
6. ミュージシャンを歌った曲、いわばメタ歌謡曲
7. ジャズインストのシングルレコードがありました。
8. 海外録音が売り物だったレコード
9. ボコーダーってのも結構流行りました。
10. まさか!あの人がこんな歌謡曲を書いていた。
11. 洋画のテーマソングとされた歌謡曲
12. ヨーロピアンヒッツで通りそうな曲
13. コマーシャルから生まれた名曲・迷曲
14. 海外アーティストがこの人の曲を!
15. 歌謡曲に聞こえる外国のロック

今日のまとめ 「小泉君と安倍君」 06.10
 以前より不思議に思っていたが、何故国会議員は「〜〜君」と呼ばれるのだろうか。かつて土井たか子が議長の時に、それを「〜〜さん」に改めていたが、議長交代とともにか、また「クン」に戻ったようだ。また、政治化特有の物言い、例えば善処するとかという表現、あるいはあいまいな言い方も、政治家には付き物と長く思われていた。しかしそれらを打ち破って一般的な言葉使いで話したのが小泉前首相であった気がする。そこが高い支持率の一つの秘密なのだろう。ポピュリズムの政治家といわれる所以でもあるだろう。「そんなこと私に聞かれて分かるわけないだろう」は確かに非難を呼んだものだった。しかし歯切れ良く話さなくても、わかりやすい言葉を使う、これは誤解を避けて正確に伝えるためには必要なこと出じゃないだろうか。前述の問題は首相が「わからない」ことではなく、「わからない」ままに派兵の決断をしたことにあると思う。翻って安部新総理はどうか。問題点としてカタカナの多用が新聞で指摘されていた。大体に、一般的に使われないような言葉使いをするのはどんな時か。私は二つの場合があると思う。一つは、はっきりさせると異論が続出しそうなとき、もうひとつは自分でもはっきり理解してないのを隠そうとする時である。カタカナは恐らく後者の例ではないかとにらんでいる。当たり前というか当然過ぎるというか、政権を担当してそうすぐ具体的なことに触れるなどできるはずもなく、これは他の新大臣も同じで、なぜ就任直後にああもスラスラと抱負などがいえるものか。官僚のレクチャー丸呑みが見え見えである。「美しい国」とか靖国問題であいまいなのは前者に違いなく、内閣発足そうそうに厄介な話は隠し続けたいのだろう。しかし、歴史認識は易しくいうと、わが国の立ち位置の確認であり、国政の立脚点ではないのだろうか。そこを明らかにせずして国民は首相の判断の正しさを何に求めれば良いのだろうか。「美しい国」では何も語ってないに等しく、自らの政治哲学を表したものとはいえないだろう。

今日の暴露話 「私の弱点」 06.9
数年前にも書いたことだが、丁度今頃感じられるキンモクセイの香りには弱い。考え事をしていても、そっちに気をとられ、思いが若かりし頃にフラッシュバックしてしまう。あと年のせいだと思うが、涙もろくなり、テレビ番組のお涙ちょうだいもののドラマはもちろん(だから絶対見ない)、バラエティでも子どもや若者が何かにチャレンジなどというバラエティも、結果が出る前にすぐチャンネンルを変えてしまう。もっとも世間には同じような人が多いせいで、ビデオ投稿番組では子ども(特に幼児)と動物のシーンが必ず採用されるのだろう。当然私も「からくりTV」のこのコーナーには釘付けになってしまう。で、つい、そばの娘に「あのころのお前だって」などと昔話をしかけて、おっとこれは最近タブーだったと口をつぐむのは辛い。とはいえ、実は娘に甘くて、この頃は「おとうさん、いい?」の一言に、早朝5時でもアッシーとなって、徒歩たかだか15分の道のりでもクルマで送ってしまう。そういえば、私の数少ない苦手な食べ物の「みょうが」を豆腐にかけないでいると、娘に「この程度くらい食べなさいよ」と叱られるもの情けない。大体昔は臭いの強い野菜は軒並み嫌いで、これでもかなりの数を克服してきたもので、残るは大きな長ネギ(煮崩れていればOK)くらいのものなのだ。それにしても難しいのは親子関係、たまにかけたり、かかって来たりの母親との電話も苦手で、娘の気持が分かるようでもあるが、とにかく鬱陶しいくらいに話が細かく長い。それを思えば帰りを待ちかねたように留守中のアレコレを話しかける配偶者は我慢せねば、と思うわけである。しかし、私の最近最大の弱点は、中古CD(レコード)である。とにかく街を歩いている時、はたまたドライブ中に店舗の看板を見かけたら、用件そっちのけで寄り道しかねない。2,3年前に録りだめたカセットテープが破損して以来、始まった癖といっても良いが、一体いつ収まるのだろうか?

今日の手紙 「まりちゃんへ」06.9
「オトーサン、こどもはいつおとなになるの?」こんな君の、久しぶりのど真ん中の速球におとうさんは、ちょっと後ずさりしてしまった。そして思わず「関係性の問題なんだ」などと口走ってみてウヤムヤにした感じでした。でもこれは嘘ではなくて、例えば戸塚のおばあちゃんにとって、おかあさんはいくつになっても子ども、という意味です。君は大学生ということでは大人なのに、私やお母さんは君のことをまだ子ども扱いしていると思っているのでしょう。それは、さっきの「関係性」ということに加えて、君が一人っ子だから、ずーっと小さいころからいつも注目され続けて来たせいで、親としてなかなか幼児のころの感覚から抜けきれていないということがあるかもしれない。でもそれだけではなくて、君には確かにまだ「大人とは呼べない」部分があると、私は思います。それでは、大人と子どもの違いとは何でしょうか?例えば「大人っぽい」子どもと「子どもっぽい」大人は何が違うのでしょうか。ある意味とても難しい問題ですが、おとうさんとして答えてみましょう。例えばおとうさんは、バイクなど子どもっぽい遊びをしたり、時々ふるまってみえるかもしれません。でもギリギリのところで「大人」で留まっています。つまり、予想外の、度を越した迷惑にはなっていないはずです。いわゆる想定の範囲内に収めています。確かに君は以前から「お姉さん」に見えて大人っぽいところがありました。けれども、おとうさん・おかあさんが予期したような過ち、ある意味悪い予感があたった、みたいなところが、まだ多い気がします。厳しく言うと、判断力が甘いというのでしょうか。もちろん、おとうさん・おかあさんだって、甘い部分はありますが、君よりはずっと少ない。そこら辺が大人と子どもの境目の一つかな、と思います。だからきちんとした判断力が付いてきた、見受けられるようになったら、大人になった(近付いた)ということでしょう。他にも大人・子どもの境目については基準があるとは思いますが、今日はこんなところで・・・寂しいようでもあるけど、期待しています。

今日の課題 「日本人の法意識」 06.8
恐れていたことが起こってしまった。しかもズバリ我が身に起きてしまった。自分の予言?が当たったというのは、前にもこのサイトで指摘したことがあるが、何度目であろうか。但し今回はここに書いたことではなく、友人知人に話していたことである。今年4月道路交通法の改正に先立ち、私は一種の弱いものいじめが起こるだろうと思った。つまり駐車違反の摘発を民間委託すると知り、そのことが引き起こすであろう結果を予測したのである。もっとも私以外にもそう感じた人は多いかもしれない。誰も民間人としてその業務に当たったときに思うのは、手際よく、何事もなく無事に遂行することだろう。ノルマがあろうがなかろうが(あれば余計に)決められた時間内にさっさと終えたい、それが人情だ。で、実際私に起きたのはバイクの駐車違反であった。置いた場所は人気のない公園の、まあ歩道といえば歩道のようなところであった。用向きは、近くの米軍基地のお祭りであった。そこはバイクは入場禁止であったため、ここなら人通りも少なく目的地から徒歩で10分もかかる、大丈夫だろうと判断したが甘かった。近所の人いわくには他にも2,3台キップが張られてあった由。見方を変えれば裏通りは、確かに「作業」がし易く、短い範囲でたくさん貼れる。が、ライダーとしては納得がいかん。こんなとこカンケーないじゃん、と思う。しかし何といっても違反は違反、今後イベントの日は要注意、バイクでも何とか駐車場を探そうと思う。一方、民間業者の方も頑張って、たとえ黒塗りベンツ(ましてスモークウィンド)でも臆することなく切符を貼って欲しいと思う。また貼る勇気を裏づけとなるような対策(イチャモンつけられた時にすぐ鳴らせる警察への非常ベルなど)も考えられてしかるべきだろう。それにしても、この腑に落ちなさは何だ。もう一度法律を勉強しよう。川島武宣「日本人の法意識」を引っ張り出そう。

今日の時評  「小泉首相靖国参拝」 06.8
昨日、予想されていた通り小泉首相が靖国神社に参拝をした。任期終了1ヶ月前にして自分の思いを実現でき、さぞかし本人は満足であろう。思えば「小泉劇場」なる言葉まで生み出したほど、独特の存在であり続けた人物であった。確かに彼は、この5年間の政治を一言で言って面白くさせた。小泉ほどある意味政治を身近に感じさせた首相はかつていなかったかもしれない。その理由の一つに、彼ほど本音で発言した総理大臣は今までいなかったからというのがあるだろう。「自民党をぶっこわす」、(貴乃花の相撲に)「感動した!」、(国債発行限度額オーバーに対して)「この程度はたいしたことない」、(自衛隊の受け持ちエリアが危険地帯か)「私に分かるわけがない」等々、従来の自民党総裁では考えられない発言の数々。明らかに自分の言葉で、本音を語っていると感じさせたのは間違いない。また実際に一見したところ、道路公団にしても郵政民営化にしても、言ったことは実現したかのように思わせている。間違いなく高い支持率の一因であろう。しかしそういうポピュリストとしての限界がばれてしまったのが、今回の靖国参拝ではなかったか。一つ、一市井人と内閣総理大臣とのしての立場のはき違え、二つ、信教の自由の解釈、三つ、東京裁判=歴史認識など、ほとんどまともな説明をしないままで、公約だから(というより自分が行きたかったから?)参拝を実行した。しかも以前は8月15日を避け続けて来たのに、ことここに至って正面突破は姑息という他はない。当否を理を尽くして議論しあって決める、というのが民主主義の基本ではないか。もっとも民主主義自体がしょせん日本においては未だ借り物に過ぎない、太平洋戦争の責任すら未だ決着していない国のことだから、といわれてしまえば、そうも思えてくる。やはり政治家はその国民のレベル以上ものにはならないということであろうか。ユニークと思えた小泉もやっぱり日本人ということか。

今日の錯覚 「シリコンバレーをヒロシが往く。」 06.7 
虚飾という言葉がある。なぜか街を行き交う「クールビズ」と称されるだろう男性諸氏の服装を見ると、この言葉が不意に頭に浮かぶ。揃いも揃ってデザイナーブランドらしき黒っぽい上着に、妙なデザインのエリ・色やステッチのシャツ(それも長袖)を着、時には胸をはだけ、見ようによってはジゴロのようでもある。こんな格好で政治を語る政治家の言葉は踊っている。質素とかシンプルイズベストとか実質本位とかいうのがこの国の文化の伝統ではなかったか。私だけの個人的な好みといえばそれまでかもしれないが、決してそうは思いたくない。「真に機能的なものだけが美しい」と言ったのは確か有名な建築家だったように思う。元々暑い夏を快適に過ごすために始まったはずのこの運動が、妙な方向に向かっているように見える。もっとも、こういう本末転倒というか形式主義こそ、わが国の本質ともいえるかもしれないが。
 さて、私はユニフォームが結構好き(といってもセーラー服とかスッチーの服とか白衣とかそういう意味でなく)ということは過去にも書いたが、ついに米軍の制服を入手したので写真を掲載する。学生時代から通いつめているアメ横の中田商店で入手したもので、1200円(税込み)であった。この手はここ数年あちこち探し回ったがなかなか見つからなかった。ここまで来れば次に狙うは、前にも書いたが、自衛隊(かと思う)の開襟シャツである。入手して着用した暁には扇子でバタバタ扇いでみたいものである。昔のTVドラマの刑事のように。
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今日の白日夢 「電車内にて・・」 06.7
けだるい午後、電車のつり革につかまりながら、こんな風に妄想することがある。
1.堂々と何のためらいもなくケータイで会話をしているオジサン(あるいはオバサン)の目の前で、隣に立つ連れに大声でこう話しかける。「最近の若いやつのマナーがどうこう言うヤツがいるけど、オヤジ(オバサン)のほうがよっぽど悪いよなあ」。
2.目の前の(あるいは隣の)乗客のヘッドファンからジャンジャン音が漏れて聞こえてくる。それに合わせて、音が出ないように指でスナップしリズムを取る。
3.大股開きで眠る乗客の、その2本の開いた足の真ん中にしっかり自分の2本足を置いて立ち、その乗客が目覚めて下車するまで我慢比べをする。
4.電車によろめいた振りをして、大股開きで眠る乗客の足を踏みつける。
5.電車によろめいた振りをして、通路に置きっぱなしで邪魔になっている荷物を踏む。
腕力・容姿!に自信のあるあなた、以上の夢を一度実現してみませんか?

今日の解説 「営業マンのランチ」 06.6
新しい職場で早3ヶ月、仕事が順調に流れるようになったような気がする。その中でも、外で取る昼飯については、お気に入りの基本路線ができた。まず、最近の一押しランチは松屋の「ビビンバ丼」である。ほどほどの量の牛肉と白菜、ネギ、にんじんなどがキムチ味で混ぜ合わされて飯にかかり、さらには目玉焼きが乗せられている。これに味噌汁がついて390円、確かに豚丼や牛丼より少し高いかもしれないが、栄養のバランスからはこちらの方がサラリーマンには良いだろう。但しコレステロールを気にする向きは卵の黄身を取り除こう。次に良く最近チョイスするのは実はマクドナルドである。かつてメニューを値上げした頃から割高の印象があり、しばらく遠ざかっていた。が、千葉のどこかでこれといった食事場所が見つからず、「やむを得ず」はいってみた。で、良くメニューを見ると100円台でも結構選ぶ余地があるのである。例えば80円のハンバーガーは当然として、100円のマックチキン、本当はポテトフライが食べたいが170円は高いので同じく100円のアップルパイにしてドリンクはオレンジジュースか「野菜生活100%」のどちらか(どっちもやはり100円)で計380円。これっぽっちと思われるかもしれないが、カロリー的にはこれで十分だろうし、それに食事後しばらくすると満腹感を覚えるものである。大体オヤジになれば腹5〜6分で抑えて胃袋を縮めるよう努めるべきだと、個人的には思っている。さてさてランチのお気に入りの3品目はもう長い付き合いになる「てんや」の天丼だ。実はこれをここしばらく食べることができてない。というのも前述二つの店舗チェーンに比べて圧倒的に店舗数が少ないからである。特に私の前任地である東北には1店舗もなかった。首都圏にしても東京以外は少ない。想像するに、天ぷらのネタになる魚類の物流問題が多店舗展開の妨げになっているとにらんでいる。回転寿司チェーンとちがってそう大量でもないものをあちこちに配送するのは結構難しいのだろう。ともあれ、あの味が500円、外回りの密やかな楽しみである。

今日のニュースから 「棄民の国の愛国心」  06.6
ドニカ移民訴訟は結果的には時効といったら不正確だろうが、要するに時期遅しということで原告敗訴だが、国の責任を認めたという点では国側の敗訴といっていいだろう。それにつけても相変わらずの「省益イコール国(民の利)益」という役人の発想である。恐らく当時も今も厚生(労働)省の担当者は国のためと信じて、ドミニカ移民たちの訴えを退け続けたに違いない。さて、は国益=国民の利益という前提で話を進めてしまったが、これは正しかったのか?あるいは国益=国家の利益>国民の利益ととるべきなのか?またここで不意に頭に浮かんだのは、昨今の愛国心を学校教育の科目に織り込む云々の論争である。想像するに、役所で門前払いを食らわされたドミニカ移民の思いとしては、「故郷はいとし、されど国家は憎し」ではなかったではなかろうか。愛国心は抱いて当然とする論者はとかく「国(=(とかくの場合、国家を意味)を愛する心は、生まれ育った土地を愛する心の延長線上にある」のような物言いをするが、これは詭弁の匂いがする。明らかにしておきたいのは、クニとコッカは同一物ではない。もちろん、日本国民としてその恩恵に属している(典型的にはパスポートがわかりやすく、日本国は<日本国民である本旅券の所持人は{中略}保護扶助を与えられるよう関係の諸官に要請する>とある)以上、日本国民は3大義務である納税・教育・を果たさなくてはならない。しかし、それでほとんど十分であると思う。私がいとおしく感じるのは生まれ育った土地・自然、食べ物、家族親戚・友だちなどなどであって、今昔の国家政体などでは決してない。ワールドカップやオリンピックで日の丸を盛んに振る人たちも、その胸中に浮かぶのは、はるか日本の諸々の場面に違いない。もしかしたら、とかく同胞に冷たいという日本大使館でいやな経験をしてコンチクショーの反動があったりするかもしれない。ましてや棄民を行ないかねない国家というものを無条件に賛美できようはずがない。嗚呼それなのに、児童の愛国心を「客観的に」評価するという。やっぱりヘンです。

今日の論考 「小学校からの英語教育」 06.5
ここ最近の数ヶ月小学校からの英語教育についての議論が盛んである。私などは単純に、中国や韓国で日本より早い時期に始めているならそれに合わせてわが国もそうしたら良かろうと思うのだが、反対論も根強いようだ。いわく、まずは母語としての日本語が大事だとか日本語がおぼつかない内に英語などを学び始めたら日本語がおかしくなるとか云々。しかしこの議論は一体どういう前提で行なわれているのかが私にはわからない。まず、英語推進論者は日本語(=国語)の時間を減らせと言っているのだろうか。ただ新規に導入すべしということなのだろう。もし英語のために当てる時間がないのなら、国語以外に減らす教科を考えれば良い。例えば道徳なんぞは一体ほとんど無駄な時間であったように今振り返って私は思う。この手のしつけ的なことは家庭で教えるべき内容であろう。あるいは授業時間を増やすことだって必要かもしれない。大体今の授業時間数は本当に適正なのだろうか。土曜を減らした分だけ一日の時間数は増えても良かったのではなかっただろうか。もう一つ日本語への影響云々であるが、たかだか週に例えば3時間の英語授業が、周囲の100%で24時間日本語に接している児童に、日本語を脅かすほどの影響力を持ちえるかは疑問である。であるならばいくら年齢が違うといえども、中高計6年間いや短大・大学を足せばそれ以上の平均的日本人の英語力はもっとあってしかるべきではないだろうか。そしてどんな指導法かという視点もこの議論に抜けている。私の見聞きする限りでは、音声中心かつゲーム的ないわば右脳重視型の肉体的トレーニングが中心的なものがその中心になるようだという。しかも成績評価をしないというのであれば子どもの負担にはならないだろう。逆に、この程度ならば始めても無駄という考えもあろう。しかしまずは義務教育の中で取り入れて、それでは物足りなく思う者は学校以外の民間機関に通うというのが当面良いのではないだろうか。

今日の発見2 「老人度の測り方」 06.5 
体力が落ちてきたことで、年齢を感じることは誰でも感じることだろう。が、それ以外の部分の日常の行動や感性などで老いに気付くこともあるのではないか。私の場合をいくつかあげてみる。1.老いを隠すという積極的な努力を止める。これについては100%止めた訳ではないが、まず白髪染めを使わなくなった。次いで冬にやせ我慢をせず、股引をはくようになった。まあこの程度は許容?範囲か。2、民放よりNHKを好むようになった。例えば目覚ましとしてのFMラジオはNHKである。6時45分にスイッチオンされてまずクラシックが流れ、うつらうつらしていると、時報とともに7時のニュースになり、しばしボーっとしてから起き出すという按配になっている。かつてはFM横浜などだったが、DJのしゃべりが段々癇に障って来るようになって来て変えた。また日曜の朝方などもNHKにチャネルを合わせることが多くなった。NHK特有のテンポ感というか落ち着き感ということもあるが、内容その物も興味深く思うようになってきた。3.昼の「のど自慢」を好んでみるようになった。かつてはあの番組特有のベタツキ感が堪えられず、正視できなかった。しかし今はそれが何か微笑ましいというか、愛すべきもののように感じるようになった。これはそういう余裕が自分自身にできたということなのだろうか。4.血縁関係にない幼児が可愛く見えてくる。街で見かけたりTVに出てくる子どもたちが、以前では考えれなかったほどに愛らしく感じられるようになるのだ。で、ひいては孫が早く出来ないかと大学生の娘に願うのである。5.同窓会を心待ちにするようになる。これはいうまでもなく、若かりしころの自分を再確認したいという欲求が強くなったということに他ならない。ということとで今月末にわざわざ帰郷したりするのであった。

今日のメッセ−ジ 「オジサンから若者へ」 06.4
今、マスコミを賑わす話題の一つに「2007年問題」という団塊世代の大量退職がある。そのせいか団塊世代についての記事やあるいは番組を良く見る気がする。ちなみに1947〜49年生まれをその世代らしいので、私自身はあてはまらないが、似たようなものである。この間の「クローズアップ現代」でも取り上げていて、この世代と音楽との関わりについて触れ、音楽が特別な意味合いを持った世代だったと言う。確かに、R&R、ビートルズ、GS、フォークソング、自作自演等、このころ生まれた音楽現象は明らかにそれ以前とは一線を画し、そして今につながっている。その生成をリアルタイムで経験したオジサン・オバサンには強い印象となって残っている訳で、音楽が彼らに特別なのは当然だろう。もっといえばオーディオ機器にもオジサンたちはこだわったものだった。大きなコンポーネントが4畳半を占領している、という光景もごく当たり前の光景だったような気がする。それらを駆使し、エアチェックやらダビング作業にいそしみ、マイベストなんぞのオリジナルカセットを作ったのも今は昔。さらには、やはりクルマやバイクをあげないわけにはいかない。給料の大半をローンに取られても、使い勝手の悪い2ドアのクーペやハッチバックを買いこんで、そのうえオプションに金をつぎ込む。車中には当然自分で作った彼女好み(と自分で想定し編集した)のカセットテープを積み込んで、カップル同士で別々のクルマで集団デートなどという燃費の悪い遊びをしたものだった。一方、今の言い方で言ってオタク的な連中は、オーディオ・クルマの次はカメラに走った。一眼レフは当然として、めったに使いもしない望遠レンズ、あるいはフィルターにまで凝るのだった。
 さて、今の若者は一体何に入れ込んでいるのだろうか?メディアの報じるところから判断する限り、オーディオやクルマ・バイクなどは彼らをもはや惹きつけていないようだ。あるいは、今は多様化の時代といわれるので様々なものに彼らの興味が分散化した結果、我々には見えにくくなっているのだろうか。あるいは彼らは熱中するということをダサイ・みっともないと見なして、目立たぬように活動しているのか。また今年も街にあふれるリクルートスーツを見るとそう思ってしまう。

今日のウンちく 「洗浄便座について」 06.4
振り返れば私は尻を洗い続けて22年くらいになる、はずである。当時訳あって独身寮を出て一人暮らしを始めた時に、いち早く商品名で言うとウォッシュレットとかシャワートイレと呼ばれる洗浄機能付き便座(以降「洗浄便座」)をアパートに取り付けた。理由は、当時私が地主だったからだ。記録を調べたら工事費込みで14万5千円もかかっている。セキスイ製の一番高い、つまり洗浄・脱臭:乾燥というフル機能付きにしたせいもあるが、それにしても高価なものだった。22年後の今になれば、その3分の1近くで可能になると言うのはチョット信じられない。その後、故障で買い換えたり、家を買ったりなどで合計3台を所有したことになる。また自宅以外でも、この間洗浄便座は徐々にポピュラーになり、ホテルやオフィス等にも普及した。私は地主であったため、外泊・外出においては、ためらうことなく、いろいろなところで洗浄便座を選択、そして使用し続けてきた。つまり使用・経験年数、そして使った機種のバリエーション数からいって、はたまた地主を卒業したというキャリアからしても、私は洗浄便座評論家を自負していいと思う。
 ということで洗浄便座の選び方を伝授する。一言で言って、シンプルに脱臭・洗浄機能だけのものを選べばよい。乾燥機能は大体において不十分で、紙を使わずに尻を乾燥させようとすると非常に時間がかかる。それに30回に1回くらいの割合で、水(湯)だけでは便が落ちない時がある。だから紙は必ず使おう。それから地主の方に一言。温水ではなく、冬においても、水のままで使用することである。私がこのことに気付くまで多分使い始めて10年以上経過した。つまり温水で洗うと手荒れするように、局部が一種ただれる気がするのである。逆に水で洗うと、肌が引き締まるように、良い結果をもたらしたようで、全治した。またできることなら、水道直結型ではなく、便器のロータンクにホースを落とし込むような単純なつなぎ方のものの方がよい。その方が引越の時に簡単に取り付け・取り外しできるからである。また洗浄方式については各社各種の方法があるが、大差ない感じである。但しアフターサービスにおいては松下とイナックスは親切で、それぞれ1回、保障期間でなないが、無料で直してもらった。

今日の一言 「また、名前のこと」 06.3 
最近すっかり報道がごぶさた気味になった偽装建築問題であるが、メディアでさわがれていたころ気になっていたことがある。姉歯氏の呼び方である。なぜ「姉歯氏」ではなく「姉歯建築士」と肩書き付きなのかということである。公的資格を持っている人には肩書きをつけるとでもいう、マスコミでは申し合わせがあるのだろう。しかし過去の事件を思い起こすときに、この慣習は必ず励行されてきただろうか。例えば、佐藤会計士、鈴木消防士、高橋看護士云々が放火の疑いで逮捕された、などと報道された記憶があまりない。ということは公的資格といっても、付ける付けないで何らかの区別・差別があるということなのか。どうにも腑に落ちない。どうでもいいと言えばどうでもよいかもしれないが、報じられるたびに「〜建築士」を連呼されるのは耳障りである。わざわざ肩書きを付けなくても良く、単に「姉歯氏」と言えば良いだろうと思うのは私だけだろうか。
もう一つ気になるのは最近イトーヨーカ堂とセブンイレブンに付き始めた親会社「セブン&アイホールディングズ」の看板やらステッカーである。正確には持株会社とかいうのだろうが、所詮一般消費者には直接関係がない。どこの会社の傘下であろうが、そんなことには無関係に、チラシで見た商品を求めて、とか、あるいは単にコンビニだから、はたまたスーパーだから買い物のために訪れるのである。だから強調するとしたらウチはダイエーではない、あるいはファミマでもねえぞということで、店舗名を最大限にPRすべきではないだろうか。「セブン&アイホールディングズ」では逆に、変に勘ぐられて、ヨソに買収されたなどと思われて「最近ココ売れてないのかしら」などと誤解されるのがオチ、などと思うのも私だけ?

今日はこんなものが欲しい。「次世代ラジカセ」 06.3
ラヂカセと書いたが、欲しいのはラジオカセットプレーヤー、ではなく、ようするに持ち運び可能な音楽メディア録音再生装置(スピーカー付き)である。現在手持ちのCD・カセットと何とテレビの付いていたいわゆるラジカセが壊れてしまったのである。さて買い換えようと思い立ったが、どうせまた似たようなものを買うのは芸がない。ふと頭に浮かぶままに望ましい機能を考えてみた。まずCDとFMの再生は不可欠だ。問題は録音メディアだが、ここは機能を絞ってHDとCD-R(W)、そしてSDカードの3種が良い。なぜなら持ち運び可能となればある程度はコンパクトでなくてはならないこと、そして録音した後に他のメディアに変換することを考えると以上三種が便利だと思うからである。尚、ここでいう録音とはデジタル変換を指す(個人的に一番欲しいのはCD→SDへの簡単なMP3変換)。あれ!そうなると著作権法で制限される部分がありそうなのに気づいた。そうなるとアナログ録音で逃げられるようにMDも必要だった。そういえばDVDが再生できるラジカセというのをこの間ホームセンターで見たが、あれも悪くない。旅先でテレビにつないで映画を見るとかいうのもやってみたい。待てよ、だったらゲームCD再生可能も追加すればもっと良いだろう。と、なれば必然的にマイクミキシング機能もプラスしてカラオケにもしたい。そういえばこの間見たシャープ製品はメディア再生時にボーカルを消す(低減する?)ことができると説明してあった。ということはそれを他のメディアに録音すれば自分でカラオケが作れるということなのだろう。うーむ、これも捨てがたい。あ、大事なことを忘れた。枕元に置くので目覚まし用にタイマーも不可欠である。さて、こうやって欲望を肥大化させて行くと、ハードウェアが限りなく大きくなりそうな気がするが、表に出現するのはスピーカー部、CD(DVD)・MD・SDそれぞれを出し入れする部分、それに小ぶりなディスプレイだけである。日本お得意のコンパクト化技術をもってすればそれほど不可能なこととは思われない。各オーディオメーカー技術陣の皆様にがんばって実現していただき早く購入したいものである。

今日の批判 「ここが変だよ、日本人。」 06.2
皇室典範についての議論が事実上棚上げのような形になり、小泉首相の最後の大仕事となり、歴に名を残すというような可能性はほぼ消え去ったようだ。彼については毀誉褒貶あるものの、かねてより議論の遡上にあったという、この問題について決着をつけようという姿勢を私は評価していただけに、残念である。今後一体誰が、いわば猫の首に鈴をつけるのか?それにしても今回国会で議論すらされなくなってしまったことについて、典型的な「日本体質」、つまり決断回避・結論先送りといったようなことがあるように思う。そもそも皇室2000年の歴史という過去の膨大なデータが存在している一方、明治以降側室制度を事実上止めていることを踏まえて、最終的には男女の二分法で結論付けなくてはならない。となれば、いくら時間をかけようが考えられる選択肢はそう多くないのは明白であろう。ここに至って紀子さんが懐妊したといっても、将来を思えば、今回の議論に対し根本的な見直しを迫るものではない。(大体男子誕生の確立はいうまでもなく50%である。ましてや女児誕生の時に落胆などしたら、それこそ失敬千万な話である。)ああ日本人であることが本当に情けない。
さて、話は変わり、丁度一年前ここに<今日の演説「がんばれ、ホリエモン。」>と題して書いた。そうしたらほぼ一年後に彼は逮捕されてしまった。その時指摘したように、親の世代のある部分とほぼ同じような跡を、彼が本当に辿るとは、書いた私としても想定の範囲外であった。しかし何度もいうように、彼は異端児とか天才でもなく、降って沸いたような存在では決してないと思う。まぎれもなく、旧世代の子というか後継者であり、我々の分身でもある。だから、あれほど取り立ててもてはやすような存在でも元々なかったろう。だから、ここへ来て、掌を返したように、マスコミが非難の集中砲火を浴びせるのを見るのは愉快なものではない。もっともマスコミというのは、我々の深層心理を反映しているのだろうから、評価がすぐにひっくり返るこういう熱し易く冷め易い性質も私たちの特質なのだろうか。

今日の課題 「ネーミングの問題」 06. 2
年が明けていくつか新車の発表があった。トヨタから2車種、ダイハツから1車種そして、三菱からも1つが発表された。そのうちの1車種についてはトヨタ、ダイハツで別ブランドで出す、正確にはダイハツ生産品をトヨタブランドでも発売するという仕組みのようだ。詳細はともかく、この車種は従来ダイハツではテリオス、トヨタではキャミと呼ばれていたものの後継車に思える。ではなぜフルモデルチェンジでニューテリオス(ニューキャミ)という形の発表ではないのか?そういえば昨年のトヨタラクティス、ベルタが発売されたときもそう感じたものだ。何故ならそれぞれが、ヴィッツをベースとして造られファンカーゴ及びプラッツと従来は名付けられていたクルマであるからである。私想像するに、メーカーが既存モデルを切り替えるに際し車名を一新する理由としては、従来モデルのメカニズム・デザインを大幅変更したから、あるいは従来イメージを根本的に払拭したいため、などが挙げられる。しかし一般消費者からみた場合そういう事実は気づきにくく、要するに「新しくなった」程度の理解しかないのではなかろうか。下手をすると既存車種オーナーからは「見捨てるのか」という反発を食らう恐れはないのだろうか。ここでふと思いついて現在10年以上存続している車種名を、商用車と軽を除いて挙げてみた。ちなみに現在モデルチェンジの期間は平均4年に一度といわれているので、以下は今までに最低2回のモデルチェンジを経ている車種ということになる。
カローラ、セリカ、カルディナ、ウィンダム、カムリ、クラウン、エスティマ、センチュリー、RAV4、ランドクルーザー(以上トヨタ)、マーチ、ウィングロード、スカイライン、シーマ、プレジデント、フェアレディZ,セレナ(日産)、レジェンド、アコード、シビック、CRV、インテグラ、オデッセイ、インスパイア(本田)、ランサー、パジェロ(三菱)、ロードスター、MPV(マツダ)、インプレッサ、レガシー(スバル)、エスクード(スズキ)。(以上順番に特別の意図はなし。)
何と驚いたことに、このスペース一杯になるかと思われたが、たったこれだけである。各メーカーともこうも簡単に名前を使い捨てて良いものだろうか?あのコロナ・ブルーバードも今何処?海外メーカーについて考えてみる。有名なドイツ車、メルセデス、BMWとも多くは数字やアルフェベットで呼ぶのみ、フォルクスワーゲンはゴルフ、ポロについては変化なし。はてさて、古くは個人の成長に伴って名前を変えたり襲名したりと、名を重んじた風土は、一体この国から消えてしまったのだろうか?あるいはそういう国柄であるがゆえ、その呪縛のようなものから逃れたくて、思い切って改名してしまうのだろうか。案外万国共通の問題なのか、一考に値する問題のような気がする。
*ブルーバードシルフィが「シルフィ」に改名されたと思ったのは私の勘違いでした。

今日の夢 「ラジオのDJになる。」  06.1
私が今考えている夢は、ラジオ局で自分の番組を持つこと、言い換えればDJになるといってもよい。それが無理なら、もしかしたらこっちの方が趣旨にあっているかもしれないが、インターネット上で放送を行なう、いわゆるプライベートブロードキャスティングを実現することである。その動機は、何の変哲もなく、単純に音楽好きということである。が、現在想定上のオンエア曲が、ある「コアな人たち」にきっとウケルに違いないという確信がある。番組タイトルも「一曲入魂」と決めている。私の別の個人ウェブサイトを見た人は知っていると思うが、現在LP,やアルバムCD以外にEPレコードを400枚、シングルCDを100枚のコレクションがある。それらの特徴は一言で言えば大ヒットソングはなく、中小ヒット曲が多いということだと思う。また超ビッグネームのアーティストは少なく、その次のランクの人か、あるいは大ヒット一発屋ではなく二三発屋が多い。細かく言うと、曲としてベスト集には漏れた曲だったり、グレイティストヒットが出せなかったグループの作品などである。これらは最近いろんな形のコンピレーションの中に収録されて販売されるようになった。が、たった1曲のためにアルバム全部とか全集のすべてを買うような人はそういないと思う。もちろん、はやりのダウンロードで既に可能だと思う向きもあろうが、意外とリストにはないものである。だからそういう私の同世代のオヤジに、懐かしの曲を聞かせたい。もちろんレアなもの(例えばナベサダがヒデ&ロザンナのヒデに書いた曲)もウンチクを込めてかけようと思う。はたまた、オジサン世代の私から、今の若い人たちには未知の、例えば60〜70年代の曲の隠れた名曲とやらを知らせたい。もっと大胆なことを言うと、ネット放送局という形にすれば聴取者は世界中に広がる。とすれば、日本以外にもいるらしいJ-POP愛好者に、そのルーツたる昔のGSやフォークが紹介できるのではないか。その場合は曲紹介の何%かは英語でやろうと思う。しかし問題として技術的なことや著作権の問題等けっこうありそうで、今の私が即決行という訳には行きそうにない。多分定年後の楽しみかな、そんな風に感じている。

今日のおさらい 「去年〜今年の消費生活」 06.1
去年買ったものを調べてみたら、いやすぐ思いついたのだが、家族のためではなく個人用に出費したもので一番高価だったのは9500円のヘルメットだった。もちろん他にも1万円近い消費はあったものの、CDまとめて8枚とか、あるいはバイク修理の1万2千円とか、いわゆるソフト支出ばかりで1万円前後以上のハードウェア(衣服含む)支出はゼロだった。ちなみにその前の2004年は腕時計とポータブルMDプレーヤが壊れたので買い換えたことと、ポータブルCDプレーヤ、デジカメをほぼ衝動的といっていい感じで買った。なぜ去年はそんなストイックな消費生活を送ったのだろうか?もちろん一つにはいろんな機器が壊れなかったことは大きな要素ではある。しかしそれ以上に私の物欲が減退している節がうかがえる。物欲=生きる意欲、ととらえるとこれは少々危険な気もする。「枯淡の境地」と形容すればカッコ良すぎるが。あるいは、好景気ともてはやす世間とは裏腹に、私自身の無意識ながら先行きへの警戒感の表われなのだろうか?以前にもここに書いた気がするが、実際、ある年齢に達した男には「欠けている品」というものはそうはない。大概の商品は所有されているはずだ。であるがゆえ何かを購入するとすれば、その手持ちが使えなくなるほどに機能を損なうか陳腐化する場合が一つ。あと、よほどの画期的新商品が出現するか、あるいはそう錯覚させられて購入の衝動を覚えたときだろうか?
 さて今年は何かを買うことになろうか?一つはっきりしているのはスーツが2着ダメになっていることである。一つは虫食いに合い、もう一つは体型に合わなくなった。それからCDラジカセ、CD再生がうまくいかずだましだまし使っている。もちろん修理で対応する手もあるのだが。。数年来悩んでいるのはパソコン。実家や寮にもあるし、最近は街頭で使える場所が増えているとはいうものの、やはり手近に欲しい。しかし、一番怖いのはバイク買い替えへのほのかな蠢きである。以上危急火急緊急かと問われればNOとも言い切れそうなところがくせもので、購入が実現するか否かは私の心的状態によるところが大きい気がする。



我がスバリスト宣言
私はメーカーの営業マンである。その立場から言わせていただくと、売れる商品、売り易いこそ商品よい商品である。 だが製作者の立場からするとどうなのか、双方を止揚したものはないのか。私はその葛藤を我がスバルFF―1から続くシリーズに見るのである。 後のスバルの歴史が示す通り、その歴史は「真実の追究から妥協への模索」と言っても過言ではない。 最初の仕様は技術者のまさに信念と良心の固まりであった。後にアルファスッドのコピーモデルとなったと噂されたのも肯ける。 特に賞賛すべきはその実用性の高さである。他に走りに徹したモデルはあまたあろう。しかし当時のメーカーの位置、日本のモータリゼーションからいって、スバルFF―1にその役を負わせる訳にはいかなかった。大衆車としてのスタートだったのだ。 そこに設計者百瀬晋六は可能な限りのスポーツ心を込めたのだった。(改めて別紙スペック参照のこと) 如何にして、大衆車のベースにスポーツカーの性能を盛り込むか。彼は結果として見事に成功させたのである。 ちなみに我がFF―1はカタログスピードマイナス10kmの160kmまで相当時間走行した。またついこの間、中央高速談合坂手前の登坂斜線を120kmで走り、多くの車に後塵を浴びせたばかりなのである。その一方で先年まで私の仕事に使用し、真夏の渋滞にも堪えて、得意先回りという重責さえ立派に果たしたのであった。またこればかりは実車を見てもらう他ないが、広大なトランク、良好な乗り心地、静粛性(但しスポーツタイプ除く)等は特筆に価する。また保有歴15年の中で、トラブルの少なさも是非あげておきたい。車は走ってナンボのものだし、走る凶器でもある訳なのだから、たとえクラシックカーといえども絶対はずせないポイントだと思う。ところがこの辺のところが、いわゆる評論家筋の古い車への評価から欠けているのは絶対に納得できない。特にヨーロッパ車については、妙に点が甘すぎるといえる。以上30年前にして、スバル特にFF―1シリーズがいかに傑出した存在であったか記してきた。仲間にいわせれば、まだまだ不足していると指摘が来そうなのは承知でこの辺で留めよう。いずれにせよ万が一私の体力、資金力が尽き、これ以上FF―1を運転できなくなった時には何とかどこかに保存できぬものかと真剣に考える。それこそ日本の製造業という、ある種同じ産業に働く者として、そして悪貨が良貨を駆逐するかのような時代に生きる者の責務とさえ思う。




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